破魔弓 ~その三~
知ってる「はず」

破魔弓の矢 矢の矢筈
下端が矢尻 ハチクマタカの最高級矢羽根

破魔弓の弓 蒔絵入 掛軸をかける矢筈
上端が末弭、下端が本弭
「知ってるハズ」、「そんなハズはない」などと使う「ハズ」という言葉、これは弓、矢の部分の名から来ています。
弓の両端の弦を結わえる部分、上を「末弭(うらはず)」、下を「本弭(もとはず)」、総称して「弓弭(ゆはず、ゆみはず)」と言います。
一方、矢にもハズがあり、それは弓の弦につがえる二股になった部分です。これを「矢筈(やはず)」と言います。
「~の筈なのに」という使い方のときには、矢の方の筈の字を使います。これは、外れることがないという意味から来ているそうです。
おもしろいのは、お相撲でもこの言葉を使うことです。相手の脇や胸のところを、親指を開いた状態で押すのを「はず押し」といいます。手のかたちが矢筈に似ていることからきています。単に手を当てて押すことではなく、矢筈のかたちから名付けられているところが興味深いですね。
もうひとつ、「矢筈」という名の別のものがあります。それは写真の掛軸などを掛けるときにつかう竿のことです。先が二股にわかれていてここに掛軸のひもをひっかけて吊るします。矢の筈のかたちのものもあり、それの方が古いかたちなのでしょう、ウグイスのくちばしに似ていることから「うぐいす竿」とも呼ばれます。
はずは外れない意味を持っているはずなのに、外れることをはずれというのはなぜでしょう(早口言葉みたいです)。
弓矢には部分部分に名称があり、その一部だけ載せておきます。破魔弓には籐を巻いた弓が主に使われますが、これを重籐(しげとう)の弓、重籐巻の弓と呼びます。平家物語にも出てきます。
羽生結弦さんの名前を見るたび、美しい矢をつがえた弓を連想して「いい名前だな」といつも思っていました。細身でしなやかな弓のような演技をされます。
ほんとにどうでもいい重箱のスミのことでした。お相撲を見るときちょっと思い出して下さい。
節句文化研究会では、こうした 面倒臭いけどなんだか楽しい節句のお話を出前しています。カルチャースクール、各種団体、学校などお気軽にお問合せください。→HP最後のお問い合わせメールからどうぞ
これまで、いくつかの和文化カルチャースクール様、生涯学習教室様、ロータリークラブ様、徳川美術館様、業界団体様、中学の授業などでお話させていただいています。
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破魔弓 ~その二~
矢の本数 「四方拝」

現代的なデザインに見えますが、伝統工芸品の
駿河千筋細工を用いた、竹と木でできた破魔弓。
矢羽根は天然のフクロウです。壁に掛けて飾る
こともできます。五本矢。当店製
破魔弓飾の矢の本数をお訊ねになる方がいらっしゃいますが、特になにかのこだわりがなければ本数にあまり意味はありません。しかし、中に「四ツ矢飾り」と銘打っている商品があります。その由来は、「四方拝(しほうはい)」という儀式にあります。
前項で述べたように「大祓」は年に二度あり、冬は十二月三十一日に行われます。そして翌一月一日の未明、帝によって四方拝が宮中、神嘉殿の南の庭で行われます。普通の儀式で帝が地面に降りることはないのですが、この四方拝は地面に降り、屛風を立てまわした中で四方と天地に向かって礼拝します。現在は天皇家の私的な行事になっていますが、新嘗祭などと同様に代拝のできない重要な儀式のひとつとされています。一部の神社や弓道家でも四方拝は行われ、その際に四方に矢を射ることがあります。これをもって四方矢、四ツ矢の由縁とされているのです。ところが、神社などによっては、四方に射た後、天に向かって一本射たり、天地に向けて二本射ることもありますので、五本矢でも六本矢でも良いことになります。
矢の行事は上加茂神社の始まりと深い関わりがあります。その昔、玉依比売命(たまよりひめのみこと)が賀茂川の川上から流れてきた丹塗の矢(赤い矢)の力によって懐妊し、御祭神・賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)が誕生したと伝えられています。上加茂神社では、毎年一月十六日に武射神事が行われ、赤い鏑矢(かぶらや)が射られます。このときは、四人の神官が二本ずつ射ますので二本でも八本でも良いのかもしれません。
総じていえるのは、矢の本数はあまり関係ないということでしょう。弓と矢が組み合わさった飾りであれば、縁起的には矢の本数に関わりなく何本でも大丈夫です。
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破魔弓 ~その一~
破魔って? ②

昭和四〇年代の当店製 破魔弓
六月三十日は大祓え=夏越しの祓えです。この日には全国の神社で「茅の輪くぐり」の神事が催されます(旧暦で催すところも多い)。
昔昔、巨旦将来(こたんしょうらい)というお金持ちの家に、貧しい身なりの旅の男が「一晩泊めて下さらんか」と訪ねてきました。巨旦は男の身なりを見てすげなく断ります。男は次に兄の蘇民将来(そみんしょうらい)の所へ行き、一晩の宿を頼みます。貧しい蘇民は快く男を泊めて精一杯もてなします。翌日、男は玄関に茅の輪を下げるように告げて去ります。その後、蘇民将来の家は栄え、疫病にもかからず幸せに暮らし、巨旦は没落したということです。その貧しい身なりの旅人は実はスサノオノミコトだったのです。
以来、茅の輪を玄関に飾ったり、腰にさげるようになりました。これが茅の輪(はま)の由来ということです。これが発展して神社の夏越しの祓えの「茅の輪くぐり」になったと多くの神社で解説されています。
大祓(おおはらえ)は年に二回あって、六月三十日と十二月三十一日です。六月は夏越しの祓え、十二月は年越しの祓えと呼ばれ、厄除けお祓いの大きな行事です。お正月に「はま弓」を飾る由来もここにあるのです。
「はま」にはこのようにいろいろな「お話」がついて回りますが、みんな魔除け、厄除けに結び付いています。輪くぐりも、ほんとうに心身を清められるような気持になります。ぜひお近くの神社へお出かけください。(六月三十日から旧暦六月三十日まで、神社によって催日はさまざまです。那古野神社では八月一日に催されます)
「体験の格差」という言葉があります。あまり好きな言葉ではありません。お子様の成長過程で、お正月やひな祭り、端午の節句、お誕生会や家族旅行など、体験の豊かな子とそうでない子の「格差」のことです。この茅の輪くぐりもそうです。わずかな初穂料で体験できます。小さなころ、浴衣を着てご両親と行った「茅の輪くぐり」の体験は、いつまでも記憶に残ります。
お節句や節目のお祝いなど、高額、豪華である必要はありません。しかし、そうした体験がお子様の成長に及ぼす影響は、とても大きいように思います。親御様の情愛が自然と伝わるとともに、豊かな体験がお子様の心に宝物として残ることは間違いありません。
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破魔弓 ~その一~
破魔って? (一)

古典的な破魔弓飾り
「破魔」とは「はま」の音に付けられた当て字です。では、「はま」とはなんのことなのでしょう?今でも北関東や九州など、円い鍋敷きや車輪のことを「はま」と呼ぶ地方があります。柳田国男の高弟、高崎正秀は、「はま」とはわらを円く編んだもののことを指し、それをころがして遊ぶのを「はまころ(はま転がしの略か?)」とよんでいたと言っています。また、キャスターや引き戸についている小型の車輪を「こま」と呼ぶ地域も多く、これも「はま」との関連がありそうです。朝鮮や中国で円いものをはまとかこまとか呼ぶ例があるかと調べましたが、どうもないようなので昔からの日本語のようです。
「はま」が円い輪のことを指すなら、なぜ破魔弓にその「はま」がついているのでしょうか。平安時代の蜻蛉日記に、夜、物音がしたので「帳に結いつけたりし小弓の矢をとりて」というシーンがあります。小さな弓と矢を几帳などに護身用としてぶら下げていたものと思われます。子供の遊びにこのような小弓で、円い「はま」を転がしてそれを射る遊びがありました。これが前述の「はまころ」ですが、かつては子供の遊びに使われるくらい、ごく普通に小弓が各家庭にあったのでしょう。「はまころ」の弓ということで「はま弓」、縁起の良い漢字をあてて「破魔弓」となったわけです。そして、それは蜻蛉日記にあるように護身用として実用の面もありました。護身用がまじない的な意味を付加され、「魔除け」「厄除け」として飾られるようになったのは自然な成り行きに思えます。
地方によって、「破魔弓」と「破魔矢」と二つの呼び方があります。尾張地方では、かつては「破魔矢」と呼んでいました。「破魔弓」は関東地方の呼び方だったような気がします。いまでは「破魔弓」が一般的になりました。弓と矢が組み合わさったものなので、どちらを主と考えるかということで、どちらでもいいように思います。神社でお正月に配られる絵馬のついた矢は「破魔矢」と呼ばれるので、これとの混同を避けるためにも「破魔弓」の方が都合がいいでしょう。
今では、男の子の初めてのお正月の祝いに贈られることが多いのですが、お子様のいるいないに関わらず、門や玄関には門松や注連縄(しめなわ)を、家の中の床の間(リビング)や床柱には破魔弓を飾るのが本来の姿です。初めてのお正月にお祝いしてもらった破魔弓は、大人になってもお正月のしつらえとして永く飾っていただくものなのです。
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七夕 ~その四~
お相撲 ②

相撲神社
相撲にからんで。以前、大阪場所で太田房江知事が優勝力士の表彰に臨み土俵に上がろうとしたら拒否されたという事件(?)がありました。ときどき女性は「不浄」ということでこの大相撲事件をはじめ、全国のお祭りなどで参加を拒否されることがあります。
しかし‼ 日本国で最も神聖清浄な場所とされているのは宮中三殿です。ここでは、あらゆるものが清浄=清(きよ)と、不浄=次(つぎ)に分けられ不浄のものは近づくことが許されません。そして、ここに入れるのは、皇族を除けば女官、つまり女性だけなのです。最も神聖清浄な場所に男は入れない。つまり、男は不浄なのです。平安時代に最も恐れられたのは「死」で、人であろうと動物であろうと、それに触れた者は一定の期間を謹慎しないと外に出ることも許されませんでした。土俵は神聖と言われますが、男同士の血と汗が染み付き、相撲の始まりには土俵上で殺人が行われています(105参照)。土俵に上がれない事件は、ひょっとしたら女性をそんな不浄な場所から遠ざけ、守るための方便ではなかろうか?
この説に反対の方は、宮中三殿に女官ならぬ男官も採用すべし、という運動を起こすべきかと思います。(もちろん冗談の粋を出ない話ですので本気にしないでくださいね。)自分を清浄無垢と思っている男なんていないと思いますが、そう言い張ることで自分の立場を守りたい悲しい男の性と思っていただければ幸いです。女官のみなさんの、「清」を守り抜くための驚くべきしきたり、執念のようなものを知ると頭が下がります。これこそが日本文化の核なのかもしれません。(尤も、そのしきたりが整ったのは近代になってからのようですが・・・)
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七夕 ~その三~
お相撲 ①

奈良、平安時代には七月七日は七夕星まつりであると同時に「お相撲」の日でもありました。相撲の節会(すまいのせちえ)といって、全国から力自慢を集めてこの日に相撲を取らせたのです。そもそもの始まりは奈良時代(?)、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)が相撲を取って宿禰が蹴速の背骨をへし折って勝ったという、七月七日のできごとにちなんでいます。もちろん、伝説です。いつの時代でも、力自慢同士の勝負は盛り上がります。奈良の桜井市には相撲神社があり、 野見宿禰を祭ってあるということですが、この神社には神殿がなく土俵があるだけです。
昼間はお相撲で手に汗をにぎり、夜は星まつりで詩や和歌を詠んで酒を酌み交わすという、七月七日は実に楽しい一日だったろうと思います。
こうしたわけで、七月に行われる名古屋場所は、本来であれば本場所中の本場所であると言えます。 ~お相撲②につづく
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七夕 ~その二~
梶の葉

習字が上手になれますように
書けるけど、葉っぱのかたちが書きにくい
あ~、へたくそ・・・
お正月の「松」やひな祭りの「桃」、端午の節句の「菖蒲」のように、節句には象徴となる植物があります。では、七夕は?
「笹竹」でもいいのですが、「梶」なのです。
梶は梶の木(カジノキ)というのが正式な名前のようです。中部地方以南に分布しますが、特に古墳時代、九州の大分県では豊富だったようで、豊国(豊前、豊後)と呼ばれ、柚富(由布)の名もこの梶の木に由来するそうです。当時は神木として貴ばれ、その葉っぱはお供え物の敷物にも使われていました。
木の樹皮から和紙が作られます。また、木綿の材料にもされたようで木綿(ゆう)と由布(ゆふ)も関係ありそうです。
一方、楮(コウゾ)という和紙の材料になる植物があります。これは、ヒメコウゾとカジノキの交雑種だそうで、学名にKajinokiが含まれています。
葉っぱのかたちはどちらも似ていて、春には桜の葉のような形ですが6~7月になると写真のようなかたちに五裂します。
衣服や和紙の材料にもなる神聖な植物なので、七夕の象徴となるにはぴったりですね。墨をはじかずに書けるということなので書いてみました。書けます!
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七夕 ~その一~
乞巧奠


七夕はふつう織姫と彦星の年に一度の逢瀬というお話になっています。その日が曇りや雨だと天の川が渡れないらしい・・・笹竹に吊るした短冊に願いを書いて飾ります。
このお話にはとてもたくさんのバリエーションがあって、この牽牛織女譚のほかに、天女パターンもあります。天女が水浴びをしているところを男がその羽衣を隠してしまい、天に帰れなくなって男の女房になるというお話。後に羽衣を見つけた天女は天に帰り、男が会いに行くというものです。天女の話は全国にたくさんの言い伝えがあり、柳田国男もサジを投げています。しかも、日本だけでなく、中国や東南アジアにまで似たお話が伝わっています。
写真は桶に浮かべた梶の葉です。この裏側に願い事を書いて天に祈ります。乞巧奠という名の通り、書芸や裁縫などの上達を祈るものです。
梶は、コウゾやミツマタと同じ仲間で和紙の材料となります。葉の裏に細かい毛が生えていますが、墨で文字を書くことができます。それで、七夕を象徴する植物は「笹竹」でもいいのですが、「梶」が七夕を象徴する植物と言われます。この梶の葉をあしらった飾りのことも「乞巧奠(きこうでん)」と呼びます。梶の葉に檀紙と五行五色の房紐や麻の緒で飾ります。
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ちまきとかしわ餅 ~その二~
かしわ餅

おいしそうですが、食べられません
柏餅が生まれたのは江戸時代の後期です。昭和の初めころまでは関東地方特有のお餅でした。それは、関西地方では当時カシワの葉がなかなか手に入らず、中国や韓国から輸入されるようになって初めて全国的に広まったからだそうです。それまで、カシワの葉が手に入りにくい地域ではサルトリイバラの葉っぱが使わることがあり、それはあのサンキラのことなのです。有名な大口屋さんの麩饅頭 山喜羅(さんきら)は昭和四十八年の発売だそうですが、柏餅がヒントになったのかもしれません(あくまで想像です)。
カシワは、新芽が育つまで冬でも葉っぱが落ちずにいることから「家系が途切れない、子孫繁栄」ということで縁起物として広まったそうです。山喜羅も柏餅も大好きです。
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